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年中無休の家庭教師 毎日学習会

慶應義塾大学 法学部 小論文 1993年 過去問

1993年 慶應義塾大学 法学部 小論文 課題文

次の文を読んで筆者の考えに対する自分の意見 を示しつつ、あなたにとっての「豊かな社会」 とは何かについて述べなさい。

(注意)解答は所定の欄に記入すること。

 

日本人の「豊かさ」に関する論議が盛んである。労働 時間の削減、住宅事情の改善と通勤時間の短縮、それら に伴う余暇時間の創出と家庭の復権、あるいは雇用促進 などを通した高齢者の生き甲斐づくり等々が豊かな社会 を実現していくというのが一般的な論調のようである。 たしかに、これまでは経済成長率がそのまま豊かさの、 実現の度合いの指標であった。あるいは耐久消費財の普 及率や大学進学率の増加、さらには平均寿命の伸びや青 少年の体位の向上も豊かさの指標であったと言えるだろ う。

しかし今後日本人が目指すべき豊かさが、そのような 物理的・物質的な豊かさではないということは、すべて の人に共有されている常識である。だが、それでは次な る豊かさをひとことで言えば、どんな豊かさなのか。明 解な解答は誰も持っていない。だからといってそれが「精神的豊かさ」だなどと言われては、正常な神経の持ち主 なら、なにやら面映いと感じるであろう。 また、労働時間の短縮が豊かさの条件だと簡単に言う が、これまで働くことに生き甲斐を見出して来た人間に とっては、それはそのまま生き甲斐の短縮を意味するだ ろう。余暇や遊びに生き甲斐を見出すことはたしかにひ とつの豊かさだろうが、労働が単なる義務としか感じられなくなるのが果たして良いことなのか。あるいは、寿命の伸びが高齢化社会という問題を引き起こしたからと いって、では寿命に変わる豊かさの指標はあるのかと言 えば、それも答に窮するだろう。

このように今日では、「豊かさ」という概念そのものが 非常に曖昧で複雑になっている。これまでのように単線 的な社会発展の上に「豊かさ」が実現されるなどと考え ることのできる人は、よほどの楽天家か、あまり物事を 深く考えない人であろう。だから問題は、豊かさの指標 が、経済成長率から余暇時間の長さに変わるというよう な単純なことではなく、実はその指標そのものが何であ るかが見えないという点にあるのだ。

アメリカの社会学者であるデイヴィッド・リースマン が、1950年代以降に書いた論文を集めた『何のため の豊かさ』を発表したのは1964年のことである。言 うまでもなく、当時のアメリカはまだ繁栄の絶頂期にあ った。B世紀イギリスのヴィクトリア朝の「パックス・ プリタニカ」にならって「パックス・アメリカーナ」と 呼ばれた繁栄の中で書かれたこれらの論文は、消費、レ ジャー、仕事と生きがいなどのテーマを論じたものが多 いので、現在の日本人にとって極めて示唆に富むもので あるように思える。リースマンは書く。

「かつてアメリカが後進国であった時代には、イギリ スやその他の工業化および都市化の進行した国を引き合 いに出すことによって、その将来予測を設定することが できた。しかし現代のアメリカは、発展しすぎた国にな ってしまい、そのためにアメリカのモデルになるような 国がすでになくなってしまっている」

「われわれはアメリカの将来にとってのモデルになる ような前例をどこにも発見することができないし、豊か さについての過去の予言者たちの考え方からもあまり学ぶところがない」

こうした一節を読めば、誰でもこの中のアメリカを日 本に、イギリスをアメリカに置き換えてみたくなるだろ う。あるいはレジャーに関する次のような一節。

「外国人は、アメリカ人特有のイメージとして、怠楕 という孤独に耐えられない人間、仕事の時も遊んでいる 時も、いつも忙しく走りまわる落ち着きのない人間とい った人間像を描いてきた」 「アメリカ人は一般にレジャーを取り扱うことのでき るような教育を受けてきていなかった」。「アメリカ人は 自分の金を投入して次々に新しい欲望をつくり出してい く。だが、それらの欲望を秩序化し消化する能力におい ては、どちらかといえば貧困なのである」

 

「われわれは今、新しい『優雅な生活』について、何 の準備もできていないのである。そしてこの新しい生活 というのは、かつては人間にとっての夢であったのだが、現在では、それはどうにか処理しなければならない性質のものになってきているのだ」

 

ここまで来ると冗談のようですらある。一体これは日本人の話ではないのかと思うだろう。アメリカ人も忙し く働くことでイギリスやヨーロッパの国々をモデルとし た「豊かな社会」を建設してきたのだ。しかも1950 年代のアメリカは、人類史上いまだかつてないほどの「豊 かな社会」をつくり出してしまった。「過去において豊か さを求めていた人間が、いまや豊かさを越えた過剰の時 代に住んでいる」とリースマンは認識した。

(中略)

そうした認識に立ってリースマンが論じた問題のひと つが、すでに引用したような仕事とレジャーの問題であ る。

「仕事に対する反撃が、労働時間を短くせよという単 純な形で始まった。彼等(工場労働者、あるいは男たち 一般=三浦誌)は、生産性を高めた報酬として賃金を上 げてもらうより、もっと余暇を与えろと要求したのであ る」。「かつては周辺的特典であったレジャーが今ではふ くれあがって、逆に仕事の意識と意義を周辺に押しやろ うとしているのである」

「工業化時代の文化において、いまだに拘束的な仕事に投入されるエネルギーを、単にわれわれの消費者とし ての快楽主義に対する代償であると考えることができる かどうか。自己開発することもできず、また、人間の生 産的活動とも関係なしに、ただ豊かでありさえすれば、 それでわれわれは幸せなのだろうか」

近代の工業社会は禁欲的な労働の美徳によって支えら れてきた。勤勉な労働が新しい技術革新を生み、生産性 を向上させ、会社に利益をもたらしてきた。その原理は、 日本はもちろん、アメリカでもイギリスでもドイツでも 同じであって、現在の日本が仕事中毒と郷揄されるのは、 欧米の社会と日本の社会との歴史的な発展段階の差にす ぎない面もある。したがって、最も働きバチである国が、 最も技術的に進み、最も経済的に繁栄する反面、生活面 で発展途上的に見えるのもまた当然なのである。

しかし工業的な生産に従事し、そこで生産された製品 による生活の革新に人生の喜びを見出す段階から、「ポス ト工業化社会」と言われる、消費や余暇や生活に関心を 振り向け、人生そのものを楽しもうとする段階に社会が 移行するとき、人々はしかしそんな「ただ豊か」であるような生活が、はたして「幸せなのだろうか」と自己に 問わざるをえない。しかも一方で、現在では、高齢化や 脳死問題などのように、技術の進歩によって人間の生活 と生命と人生の意味を根本から問い直さざるをえない事 態もますます深まっている。 「何のための豊かさ」「何のための技術」 そうした問いかけが今後一層重要になるのであろう。

 

三浦展『「豊かな社会」のゆくえ』 (日本能率協会マネジメントセンター、平成四年)

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