横浜国立大学 都市科学部 都市社会共生 2017年 小論文 過去問 解説

問題

次の文章は2015年11月に起きたパリ同時多発襲撃事件に関係して書かれたもので、最初の「チカコへ」に始まる部分は、事件の翌日にパリに住む友人から著者に送られてきた言葉である(本問題冊子の1ページ目の末尾まで)。送ってきた人物は、1960年代後半にアルジェリアからパリ郊外に移住した家族の末娘で、彼女自身は1978年にフランスで生まれフランス国籍を持ち、フランスで高等教育を受けた女性である。以下を読んで、後の問いに答えなさい。

 

 

チカコへ、

わたしも家族や友だちも皆も元気。神に感謝してる。

昨晩起きたことは、ひどい、恐ろしい、許せない、野蛮、理解できない。狂ってる!

今朝、彼に起こされて「テロが起きて120人の死者がでたから、急いで病院に行ってくる」と言われ、最悪の事件が起きたのを知った。

起きあがって、テレビを点けたら、最悪の出来事が報道されていた。

私は泣いた。

ひどすぎる、とショックを受け、怯え、吐き気を催して、本当に悲しみで

いっぱい。

同時にものすごく不安を感じている。

これから数日間、何が起きるのだろう。そう思うと不安でたまらない。目の

前にいる野蛮人は、おそらくまた新たな攻撃をしかけてくるだろうから。

でも、この事件がフランスの「国民の団結」にどういう影響を及ぼすのかを考えると、本当に恐ろしくなる。

この何カ月もの間、いや何年もの間、私たちが暮らすフランスでは、レイシズムとイスラモフォビア(ア)が高まってきた。フランスだけでなく世界のムスリムは「テロは私たちの仕業ではありません、私たちはテロリストとは無関係です」と毎日のように釈明しなければならない状況が続いている!

今回の事件で状況が良い方向に行くはずはない。それどころかムスリムを犯罪者扱いする空気は強まるでしょう。

今までと同じくらい、それどころか今まで以上に、不安でいっぱい。

彼女の手紙には、二つの恐怖が表現されている。一つめはテロに対する恐怖である。「これから数日間、何が起きるのだろう。そう思うと不安でたまらない。目の前にいる野蛮人は、おそらくまた新たな攻撃をしかけてくるだろうから」――彼女はテロに対する言葉にしがたい恐怖と、それに対する激しい怒りを、このように簡潔な言葉で綴る。

だが彼女を苦しめるのはそれだけではない。「事件がフランスの『国民の団結』にどういう影響を及ぼすのかを考えると、本当に恐ろしい」と彼女は述べる。テロの恐怖とは異なるもう一つの恐怖。それは自分の生まれ育った国で日常的に後ろ指を指され、犯罪者扱いされ続けることへの恐怖である。それは「『テロは私たちの仕業ではありません、私たちはテロリストとは無関係です』と毎日のように釈明しなければならない状況が続いている!」という彼女の叫びにも表れている。

彼女は「テロ」の実行犯でもなければ、その幇助をしたわけでもない。「テロリスト」と彼女の間にはいかなる関係も存在しない。その点で彼女は「テロ」とは無関係である。ところがフランスの旧植民地にルーツをもつ在仏ムスリム、という共通点があるという理由で、まるでテロリストと関係があるかのように白い目で見られたり、非難されたりする。そして、それがゆえに「テロリストとは無関係です」との釈明を余儀なくされる。その意味でフランスのムスリムは、当事者の意思にかかわらず、事件とは必然的に無関係でいられない(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。つまりムスリム・フランス人は「テロ」の「無関係の関係者」である。

このようなもうひとつの恐怖がいかに彼女の日常生活に影を落としていることだろうか。しかもそれが今回の事件を機に始まったわけではなく、長年続いてきたということが、彼女の証言には表れている。「今回の事件で状況が良い方向に行くはずはない。それどころかムスリムを犯罪者扱いする空気は強まるでしょう。今までと同じくらい、いや今まで以上に、不安でいっぱい」と彼女は語る。この証言は、今回の同時襲撃事件が過去との断絶ではなく、むしろ過去との連続性の上にあることを明らかにする。少なくともムスリム・フランス人にとっては、そうだと言えるだろう。

フランス憲法第一条では、すべての市民は出自、民族、宗教の差異にかかわらず法の前に平等であることが定められているが、実際には「フランス人」というカテゴリーの内部には様々な差別や区別が存在する。今回の同時襲撃事件によって明らかになった差別・区別とは、このような事件が起きた際に「純粋にテロの被害者として振る舞うことのできる人」と「同じように被害者であるにもかかわらず、『テロリスト』という加害者と同一視され、肩身の狭い思いをして生きることを余儀なくされる人」が存在するという点にあるのではないだろうか。襲撃事件を通して浮かび上がったフランス内部の亀裂とは「フランス人vsテロリスト」の間にあるというよりも、むしろこのような「二種類のフランス人」の間に走っている、と筆者は考える。

2015年7月に来日したパリ西大学のアブデラリ・アジャットは、東京大学で行われた特別講義において、テロリズムと全く無関係である大半のムスリムや(信仰をしていなくとも、名前がアラブ・イスラーム系であるという理由から)「ムスリムと目される人々」が、常に「テロの潜在的支援者」の疑いをかけられ、身の潔白を証明するよう踏み絵を踏まされていることを指摘し、それを(1)「集団懲罰(Collectivepunishment)と呼んだ。先の友人も、他のフランス人と同様にテロの被害者であり、テロの恐怖に襲われているにもかかわらず、街頭ではまるで加害者であるかのように白い目でみられ、「テロリスト!国に帰れ!」と罵られるという「集団懲罰」の恐怖を味わわされてきた。

このような「集団懲罰」を受けるのは「学校をドロップアウトし、ジハーディズム(イ)の過激な思想に染まった一部の不良」だけではない。手紙の友人や、パリ大学のアジャットのように、学校で優秀な成績を収め、フランス社会で活躍するムスリム・フランス人たちも同じように「集団懲罰」の恐怖に日々さらされているのである。

「集団懲罰」を日本とのかかわりで考えると、筆者の頭に真っ先に浮かぶのは、第二次世界大戦中の日系人強制収容である。合衆国政府によって強制収容所に送られた12万人の日系人のうち7割は、合衆国生まれの合衆国市民であった。それにもかかわらず、日系人ということで敵視され、スパイなどの嫌疑をかけられた。その後、合衆国政府はようやく1988年になって公式な謝罪を行い、被収容者に対して補償金を支払った。

ところが今回のフランスでの襲撃事件の直後に、この日系人に対する集団懲罰の話がアメリカ合衆国において予期せぬ形で再び蒸し返されることになった。南バージニア州ロアノーク市市長のデイヴィッド・バワーズは、シリア難民がイスラム国の「手先」である可能性があるとして受け入れ反対を表明し(このこと自体も、集団懲罰の典型的事例である)、その文脈において「(過去の)日系人収容は正しい判断だった」との見解を明らかにしたのである。この発言は「集団懲罰」を正しい政治的判断として容認するものとして解釈できる。

興味深いのは、このような(2)「集団懲罰」の容認や積極的な奨励が、個人主義の発達する先進国で(も)起きている点である。集団懲罰にみられるような個人を集団に縛りつける発想は、前近代まではきわめて支配的であった。しかし近代化を通して共同体に縛りつけられていた個人が徐々に解放され、集団責任から自己責任への移行がすすんだ。ところが、このように自己責任論に支配される現代社会において「内部の外部」であるマイノリティに対しては集団責任を問い、集団懲罰を容認する空気が強まる、というダブル・スタンダードが強化されている。このようなダブル・スタンダードは「テロ」との戦いという名の下に正当化されることが多い。しかし「テロリスト」として「ムスリム」をひとくくりにして敵視、差別することは「空爆をする欧米の国家」と「その国民」をひとくくりにして、攻撃を展開するテロリストとまったく同じ論理である。

以上をふまえて、いまいったい何ができるのか、何をすべきなのか。1990年代よりフランスのムスリムの過激化を研究してきた社会学者のファラッド・コスロカヴァールは、短期的にはジハーディスト戦闘員の逮捕や収監が効果的だが、長期的には社会の底辺に滞留し、差別を受ける若者たちを、社会経済政策によって包摂することが必要だと述べた(『ルモンド』紙、11月17日)。郊外の状況を長年追ってきた筆者からみても、社会経済格差を是正し、差別を撤廃する政策がなければ、治安をいくら強化しても根本的な解決には至らないと思われる。

しかし現在の世界的な潮流は力の論理がますます支配的になり、「過激主義に屈するな」という威勢のよいかけ声のもと、力でテロ組織をねじ伏せることが叫ばれている。それに対して差別や貧困の解消といった社会的要因の重要性を指摘すると、そんな甘いことを言うのは現実的でない、と一蹴されがちだ。しかし9・11以降、この論理のもとで15年間近く「対テロ戦争」が続けられたが、世界の安全をめぐる状況が好転していないことは、パリの事件を含めた世界各地で起きる一連テロ事件の連鎖を見ても明らかだ。このような状況を解決するための「現実主義」とは、問題の根源に対処する長期的展望においてしか存在しないのである。

(森千香子著「パリ襲撃事件のもう一つの恐怖一『無関係の関係者』としてのムスリムの立場」『UP1525号東京大学出版会、2016年7月より、冒頭部分及び小見出しを省略するかたちで抜粋』

 

  • イスラモフォビア:イスラムを嫌悪すること。

(イ)ジハーディズム:ジハード主義。ジハードは、『広辞苑第六版』(岩波書店)では「イスラム世界で、信仰のための戦い。自己の内面の悪との戦い、社会的不正との戦い、また宗教的な迫害や外敵の侵略などに対して武力を行使すること。聖戦」と説明されている。元来は信仰のために「努力」することをいう幅広い意味のことばだが、本文ではそのなかでも、イスラムの教えの特定の部分を強調し、それに同調することを求め、認めない人々を実力で排除することも辞さない考え方や運動を指している。

 

問1.文中の下線部(1)に「集団懲罰(Collectivepunishment)とあります。これについて次の➀、②の問いに答えなさい。

➀「集団懲罰(Collectivepunishment)」とはどういうことか。自分の言葉で

100字程度で説明しなさい。

 

 

  • 議論の整理→言葉の定義とその補足説明

(2) 問題発見→不要
(3)
 原因分析→不要
(4)
 解決策→不要
(5)
 解決策の吟味→不要

 

 

敵だと認識した属性と類似した属性を持っている集団に対して、無条件で同列視し敵と同様の扱いをする意識または行動を指す。属性というのはその個人の特徴よりも人種や出生に依存し、無思考の同一化から生まれている。

(101)

 

②「集団懲罰(Collectivepunishment)」にかんして、本文で挙げられている事

例とは別の事例を挙げて、100字程度で具体的に説明しなさい。

 

 

(1)  議論の整理→事例の提示とその補足説明

(2) 問題発見→不要
(3)
 原因分析→不要
(4)
 解決策→不要
(5)
 解決策の吟味→不要

 

 

加害者の家族や親族に対して、「犯罪者と関わりが深かったから身内も犯罪者」という感覚で非難を受ける例が挙げられる。加害者家族の自宅周辺で待ち構えて過剰な報道をしたり、個人的に嫌がらせをするケースが見受けられる。

(104)

 

問2.文中の下線部(2)に「集団懲罰」の容認や積極的な奨励とあります。について次の➀、②の問いに答えなさい。

 

➀なぜ「集団懲罰」の容認や積極的な奨励ということが起きると考えますか。

その理由を挙げて、250字程度で説明しなさい。

 

 

(1)  議論の整理→不要

(2) 問題発見→冒頭一文
(3)
 原因分析→二文目以降。(2)に至る流れの説明、仮説提示
(4)
 解決策→不要
(5)
 解決策の吟味→不要

 

 

自己責任論で処理できないストレスの解消方法として生じると考える。近代化を通して、集団責任から自己責任へと価値観の移行が進んだ。しかし、戦争という国家同士の衝突が起きた時に、個人論では解決できない問題が発生する。例えば実際に何かしらの被害を受けた時に、恐怖や怒りという感情が生まれる。対個人であればその感情を原因にぶつけることが可能だが、対国家の場合だと原因が遠すぎてぶつけることが難しくなる。そこで、身近な「敵と同じ属性」を有する集団へ攻撃することによって、感情を昇華させるのではないか。

(244)

 

②「集団懲罰」にたいし、あってはならないと反対する立場から、その理由を

挙げて、250字程度で説明しなさい。

 

 

(1)  議論の整理→1文目

(2) 問題発見→2文目
(3)
 原因分析→3,4,5文目
(4)
 解決策→6文目
(5)
 解決策の吟味→不要

 

 

集団懲罰はあってはならないことだと考える。理由は、集団懲罰がテロリズムの連鎖を生む温床になり得るからだ。テロリズムによる民間被害は、個人と集団を一括りにして敵視することで生じる。集団懲罰も同様で、同じ被害者という個人の目線、敵と同じ属性であるという集団の目線を混同した結果だといえる。例えば、集団懲罰により差別されていた側が憎しみを募らせ、逆に攻撃することを考えたとしたら、同じ構造の戦争が再び起こるだろう。長期的な目線で平和な世界を目指すためには、まず目の前の集団懲罰を撲滅する必要があるのではないか。

(252)

 

 

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