早稲田大学 文学部 AO入試 志望理由書 提出例(クラヴィッター・アルネゼミ向け)

■議論の整理

近代はどういう時代か。前近代に比べ、王の身体に位置する視線がなくなったことで、人々は平板な世界にいきることになった。しかし一方で、それは不在の王の身体に位置する、ある種特権的な視線、しかしそこには誰もいない視線(否定神学的な視線)を獲得することになった。それが法であり、父の名であり、大他者である。

 

■問題発見

近代が終わり、大きな物語がなくなったからと言って※1、そこには平板な世界のみが広がり、人々が好き勝手闘争状態を繰り広げているわけではない。そこには、ある種の不可視の特権的な視線があるのであり、それを問題化したのはフーコーだった。フーコーはパノプティコンという比喩を用いて、自分たちから見ることはできないが、常にだれかに見られているかのような近代の権力関係を浮き彫りにした。そのとき私たちはどう訓育されることになるか。

 

■論証

知の主体が、個人の物であるのと同時に、一方で私たちは誰かに規定されて、主体化の呼びかけに振り向くことになる。しかし振り向いてもそこには誰もいない。クラヴィッター・アルネは研究成果の中で、この特権的な視線が個人に内面化されている様を次のように述べている。「パノラマの特徴は視線の偏在である。その際、個人は無際限に見る者、すべてをその眼差しで見通すことのできる主観として創設されることになり、これによって個人はその主権を確かなものにする。他方で個人は眼差しに完全に従属することになる。個人は主権的なまなざしの対象とされるのだ。」

 

■結論

特権的な視線を内面化した挙句、人々は自分の知をコモンセンスに変えて、主体化をはじめる。しかしその一方で、人々は個性を発揮するために、自分を省察するための個人的な視線を同時に獲得しなくてはならない。このような視線の二重化がおこることで、近代のシステムは保たれているし、古臭い「近代的自我」もいまのところ保たれていると言えるだろう。

 

■結論の吟味

しかし、芸術に目をやると、これだけでは片づけられない、様々な事象が目に付く。私たちはその振り向きに応答する必要があるのか。視線が二重化することはどのような迷宮に私たちをいざなうか。「これはパイプではない」と書いたルネ・マグリットは言語作業に潜む視線の二重化のあい路を的確にとらえている。80年代から90年代にかけて議論つくされ尽くした感のある「主体」というキーワードをめぐって、もう一度、主体の行く末を文化作品・芸術作品を手掛かりに考察してみたいと考え、貴学への入学を希望する。

 

※1フランソワ・リオタール『ポストモダンの条件 知・社会・言語ゲーム』

※2クラヴォッター・アルネ「ドイツロマン派における自己のテクノロジーとしての断片とパノラマ」(科学研究費助成事業研究成果報告書)期間番号14301 基盤研究C 2010~2012 風の薔薇 1986

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